明治38年生まれだった父は昔気質で頑固な人だった。
里は田舎の小さい村だったのだが、父はリーダー的存在でいずれは村長や組合長をする人だったと聞いていた。
私は末っ子なので姉や兄に比べてとても甘かったらしい⁉️ それでも家の中に居るだけでも怖くて怖くて なるべく顔を合わさぬように過ごしていた気がする
父が49才の時 自宅の庭で倒れて「脳卒中」という不幸に見舞われ半身不随となった。その時私は小学1年生 7才だった。
おしゃれでスーツを着て出掛ける父の姿を私は知らない⁉️
当時田舎では治療とリハビリは自分の家でやるのがあたり前で時々医者が回診に来てくれていた。
不具合の身体ではあったが、自分なりにリハビリをして69才まで生きてくれた。
活発に動けないが頭と口は元気で相変わらず厳しい躾を子供達にしていた。
私が80才近い今になって、病身で自由のきかない身がどれほど悔しくて苦しかったか 父の気持ちが理解できる。
子供の幸せを祈り いつまでも兄弟姉妹 仲良くしてほしいと願うのはどんな親でも思う事だが なかなか難しい⁉️
父は昔から、身内からお金の貸し借りは絶対するな❗️ あげるならいい 返してもらおうと思ってはいけない。❗️
四人の子供達には田舎に残らなくていい 自由に生きていくこと❗️ その後は自分の責任を持つこと❗️
今でこそ別居は普通だが、あの頃は子供の一人が同居するのが当たり前の時代 ましてや病身の親を残して出て行くのはなかなか勇気がいることだった。
それでも父のひと言で私達兄弟姉妹は都会に出て、世の中を生きてきた。そしてとても仲がいい。毎年のように旅をする。
それには義理の兄 姉への感謝もある‼️ そう思える事も親の教えに他ならない⁉️
80才を前に人間としての真髄を父から教わった気がする⁉️
怖くて優しい父だったと思い出す昨今である。……………遅いかも⁉️
田舎の家の庭には大きな柿の木が2本あって、木に登って取って食べるのが当たり前だった。今スーパーで売っている柿を買うのに躊躇してしまう。鳥取の庭にも柿の木を植えて懐かしんでいる⁉️